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2009.03.06
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998.zip.jpg 1903年 ブダペストにて3人兄弟の末っ子として生まれた。名はヤーノシュ。父はマックス・ノイマン、銀行の弁護士をしていた。母はマーガレット・カンで、ともにハンガリーに移住したユダヤ系ドイツ人(ユダヤ系)だった。

幼い頃より暗算と語学の才能を見せた。英才教育も受け、能力を伸ばす。6歳で8桁の割り算を行い(後に入学するギムナジウムの先生が、ノイマンの父に「この子は数学の才能があるので、大学では数学を教えてもらうように」と話したという。)、ギリシャ語を話せた。8歳で微分積分をものにした。興味は数学にとどまらず、家の図書室にあった44巻本の歴史書を読了した。好んで読んだもの、特に世界史やゲーテの小説などに関しては一字一句間違えず暗唱できた。長じてからも数学書や歴史書を好み、車を運転しながら読書することもあったという。

1913年 父親が貴族の称号をお金で購入した(オーストリアのユンカーに相当する位)。この段階で、「ヤーノシュ・ノイマン」は「ヤーノシュ・フォン・ノイマン」になったことになる。(この名は、後にドイツ語のヨハン・フォン・ノイマンJohann von Neumannに変えることになる)

1914年 ブダペストにあるルーテル・ギムナジウムへ入学。

1921年 ギムナジウムを首席で卒業。

ノイマンは、身なりはいつでもスーツとネクタイでフォーマルに固めていたが、モーツァルトよろしく馬鹿馬鹿しいパーティーでハメを外すことを好んだり、乱暴な運転などで逮捕されたりした。また極端な暴食を行い(計算はできるが、カロリー計算だけはできない、などとも評された)、下品な冗談を好み、女性の脚をしつこくジロジロと眺めたりもしていた。

ブダペスト大学(Eötvös Loránd Tudományegyetem)の大学院で数学を学ぶ。数学よりも金になる学問を息子につけさせようと望んだ父親がセオドア・フォン・カルマンに相談した結果、ノイマンはベルリン大学とチューリッヒ工科大学を掛け持ちして化学工学を学ぶことになった。授業を欠席しても試験では非常に優秀な成績だった。23歳で数学(実験物理・化学も同時に)博士号を授与された。

1926年 論文がダフィット・ヒルベルトに甚く気に入られ、ゲッティンゲン大学でヒルベルトに師事する。ヒルベルトはノイマンに感心するばかりだったという。瞬く間にノイマンはヒルベルト数学の旗手となった。

1927年から1930年 最年少でベルリン大学の私講師(Privatdozent)を務めた。

1930年代はナチス政権を嫌い、ノイマン一家はアメリカ合衆国に移住することになった。ジョンというアメリカ風の名前に改名した。(奇妙なことに、兄弟は皆異なった姓の表記に変えた。ヤーノシュは、フォン・ノイマン von Neumannという貴族風の匂いが強く残る苗字に。彼の兄弟たちはVonneumannとニューマンNewmanにした。)

1930年 プリンストンに招かれ、プリンストン高等研究所の最年少会員に選ばれた(4人のメンバーのうち2人はアルベルト・アインシュタインとクルト・ゲーデルであった)。 ノイマンは1933年以降この研究所で数学の教授を務めた。

1931年 ゲーデルが不完全性定理を証明し、ノイマンは転機を迎える。この証明はノイマンの活動を広げることに繋った。
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